ずーと大切にしたくなるようなもの
僕は茶道をたしなんでいる関係で、茶室に出向くことが多いし、茶室の設計もしている。茶道というのは、一服の茶で客をもてなす文化である。一期一会の時のため、こだわりの茶碗や、豪華な蒔絵の施された茶器、思いのこもった茶杓など、数々の道具を揃えて客を迎える。そこでは、書、陶芸、蒔絵、指物、花など、現代社会における和の文化に総合的に出会うことができる。湯を沸かすにはほとんどの場合、炭を用いる。電熱の加熱機もあるが、やはり炭をおこし、釜肌から湯気が上がり、やがて釜から釜鳴が聞こえ始め沸いた湯の方が断然美味しい。釜を据える炉壇は、最近では釜を当てると欠けてしまうし、塗り替えも費用がかかるので土で作られたものから金属製に変わってきているが、それだけに、たまに左官の炉壇に出会うと、それだけで嬉しくなる。茶道はこんなふうに、現代社会では、ほったらかしていたら無くなってしまうものを、大切に扱っている文化である。
近代以降の建築生産および社会構造は、効率性、再現性、数値化可能性を基準とした経済合理性によって再編されてきた。とりわけ住宅生産の分野では、短工期・低コスト・性能の数値化が重視され、建築は高度に工業化された商品として扱われるようになった。この過程において、かつて人々の生活や社会を支えていた多くの行為や空間、そして大切にすべき心のあり方までもが、経済合理性に適合しないものとして消失してしまったように感じる。
建築・住まいの領域においては、本漆喰や土壁に代表される伝統構法の家づくりが消えた。これらの構法は、工期の長さや技能者への依存度の高さ、断熱性能や耐震性能を単純な数値として示しにくい点において、現代の住宅生産システムと整合しなかった。その結果、規格化された構法や工業化住宅が主流となり、伝統構法は非効率なものとして退いた。さらに同時に失われたのは、建築を一度きりの完成物としてではなく、修理や更新を前提として長期的に使い続けるという時間感覚である。昔、家を建てる行為は、集落みんなで参加して茅葺きの屋根を葺くなど、生活の基盤を共同で立ち上げる社会的実践であったが、農村部などでかろうじて残っていたその意味さえ、住宅の工業化とともに消失した。
縁側、土間、床の間、仏壇・神棚といった家の中の「余白」も急速に失われた。これらの空間は、現代人の暮らしにとって無駄と判断されたためである。しかし本来これらは、人と人、人と自然、人と死者や過去とを媒介する空間であり、用途の曖昧さによって多様な関係性を受け止めてきた。これらの余白の消失は、住まいが生活機能の集合体へと還元され、関係性や時間を内包する場としての性格を失ったことを意味する。
以上のように、経済合理性のもとで失われたものとは、単なる非効率な技術やスペースではなく、人の時間感覚、行為の意味、関係性の持続を社会の中に組み込むための構造そのものであった。この状態で、皆が幸せな世の中が継続するのであれば良いかもしれない。しかし現代社会は、成長と効率を前提としたシステムが限界を迎えつつあり、その綻びを補うために、これらの要素が新たな意味を帯びて再び現れ始めているような気がするのである。また昨今のAIの発展もそれを後押ししている。人が建築設計や大工、左官のような創造的で人間らしい仕事に打ち込むことができる時代が、再び来る予感がする。
僕は、土壁や本漆喰のような住宅における伝統構法を、過去の歴史として保存されるのではなく、現代において新たな意味を帯びて再出現すべきだと思って用いている。ではその意味とは何か。左官による壁は、断熱性能や調湿性能、防火性といった点で、現在の住環境においても有効な性能を有する。室内環境の安定や素材由来の耐久性という観点から見ると、化学建材に依存した現代住宅において問題となりやすいシックハウス症候群やアレルギーといった課題に対し合理的な答えとなる。さらに、土壁や本漆喰の壁は、傷んだところを直し、塗り替えながら使い続けることができる。汚れたら張り替えることで均一な新しさを保つビニルクロスとは違い、左官の壁は、手を入れるたびにその家だけの時間を刻んでいく。住まいは、完成した瞬間に終わるものではない。暮らしの中で触れ、手をかけ、応え合いながら、少しずつ表情を深めていく存在である。土や石灰の壁は、住む人の時間や気配を受け止めながら、静かに、確かに、その家を育てていく要素となるのである。
家は人が自分のために作るものだ。自分だけの家だからこそ、合理性に従って「人にとって大切な何か」、までもを捨てることは馬鹿げている。合理性では判断できないかもしれないけれど、でも大切にしたいものが、大切にされるような家を造っていきたい。そういうものになり得るのは、左官とか大工さんの手仕事とか、作るのに時間はかかるけれど、ずーと大切にしたくなるようなものしかないと思うのである。

