増井真也 日記 blog

皆様良いお年をお迎えください。そしてまた来年もよろしくお願いいたします。

2024/12/28

今年は元旦の大地震からスタートした。僕はものつくり大学の修士学生として大学院に通うという、これまでに経験したことのない挑戦をした年であった。なぜこんなことをし始めたのだろうかという質問をされることが多いが、事は割と単純明快な理由で起こり始めた。裏千家の茶道を始めて15年が経った。その間茶室を作る機会にも恵まれた。元々、日本の文化が好きである。ゆえに日本の建築も好きである。会社を初めて今年で24年が経ったが、10年目くらいから和室を作らせていただく機会をいただくことが多くなった。工務店機能を兼ね備えた設計事務所として開業したが、10年くらい経たないとまともな和室はできないと思われていたのだろうし、実際にそうだったと思う。

4年ほど前にチルチンびとの登録工務店になった。程なく、とても有名な左官型工務店の社長の加村さんに出会うことができた。奈良の居酒屋で飲みながら話をした時に、ボードに薄塗りの壁と、ラスボードに厚塗りの壁と、木摺に土壁を下地として塗りつけてその上に漆喰を仕上げる壁の話を聞いた。話を聞いただけではその差を認識することはできない。でも左官にはとても興味があったので、その3つの構法を実際にますいいのモデルハウスで試してみることにした。出来上がった壁はやっぱり全然違うもので、壁の厚さというものは目で見て感じることはできないけれど、でも感覚的に全然違うものだということを改めて認識した。特に本漆喰の部屋で感じる静謐感というのは特別である。壁を舐める光はどことなく揺らいでいるが、それは左官の塗り厚がどうしたって均等にはならないということから発生する、2時的な魅力なのだろうと思う。正しいかどうかわからぬが、人の手の跡が醸し出す魅力というのはこういうことをいうのかもしれない。

銀座に一草という左官の名人の小沼さんが内装をやった店がある。そこに加村さんと小沼さんと一緒に行った時に、「もう少し左官の研究をしてみれば」と背中を押され大学院への進学を決めた。その時点では、左官の技能がどうしたらもっと社会で認知される形で評価されるのか、そしてその評価が左官技能者の暮らしをもっと豊かにできないかということに焦点を当てた研究をしようと考えていた。以来、さまざまな先生方や最小元の方々にご指導されながら今に至っている。まだまだ左官研究者としては新参者の部類である。分かればわかるほど面白い、左官とはそんなものだ。

西伊豆に松崎町という町がある。ここは入江長八という左官の名人、特に鏝絵の技量が評価を受けている左官の神様の誕生した街である。そしてこの町にはたくさんの鏝絵がある。この写真は、明治時代の商家である中瀬邸の蔵の扉の内側に描かれている竜だ。人々の暮らしを豊かにするのは、このように作り手の魂がこもった作品である。今こういうものがどんどん失われていこうとしているけれど、それでも作りたいという魂を持つ職人はまだまだ存在するのだ。魂を持つ作り手、そんな人たちとその作品を世に出していきたいというのが僕の研究の一番のテーマなのである。

今年も今日で仕事納め。新年は7日より営業を開始する。休みを多くするために連休を長くとったことで、6日ではなく7日からのスタートとした。皆様良いお年をお迎えください。そしてまた来年もよろしくお願いいたします。

八王子にある大学セミナーハウスに泊まり込みのゼミ合宿に参加した。

2024/12/22

今日はものつくり大学の三原研究室に所属する学生と一緒に、八王子にある大学セミナーハウスに泊まり込みのゼミ合宿に参加した。こういう合宿に参加するのは初めてのことだ。何をするのだろうかと思いながら参加してみたら、主に卒業論文の発表練習と内容の作り込み、そして大学生活の思い出づくりというところであった。途中レクチャーで久しぶりにのバスケットボールをしたけれど、やっぱり一緒に体を動かすと心の距離がグーっと縮まるものである。大学の教員というのはこうやって毎年4年生を送り出していくのだろう。夜は宴会である。セブンイレブンで買った差し入れのお酒を飲みながら、学生たちがみたこともないような笑顔を見せてくれた。セミナーハウスには吉阪隆正が設計した有名な建築がある。この建築について、木村先生が書いた文章があったので掲載する。

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広い敷地の小高い丘に聳えるセミナーハウス本館は、ピラミッドをひっくり返したような形だった。
それは大地に楔を打ち込んだのだと設計者の吉阪隆正は嘯いたが、実は大勢が集う食堂を見晴らしの良い最上階に配した形になっていた。
傾斜地の整地をせずに環状に配置した学生達の宿舎群は一本の柱で支えられた個室もあり、変化のある景観を醸し出していた。

吉阪先生は、コルビュジェの薫陶を受けた新進気鋭の建築家で、1953年フランス留学から帰国早々私ども新入生のクラス担任となり、その第一声は、「何でもいいから皆一番になれ」だった。
学生はキョトンとしていたが、先生は「それには他の人がしないことをすることだ」と。
吉阪先生は、よく「人の話を聞いたら、まずその反対のことを考えてみると、その方が正しいことがよくある」とも言われた。

文章も能くし、世界中を飛び回り、寸暇を惜しんで活動され、63歳で人の三生分を全うされた稀有の人だった。
後に私自身も先生の同僚となり、よく學生達を連れて行き、静かな自然環境に浸る時を楽しんだ。

早稲田大学名誉教授、千人会会員
木村 建一

今日はモデルハウスにて、薪ストーブのイベントが行われた。

2024/12/14

薪ストーブをちょうど良い熾火の状態にしたところに、鉄板の上に乗せたピザを置くと3分くらいでカリッと焼き上がる。皆思い思いに自分のピザをトッピングして、焼きを担当してくれたダッチウエストの西田さんに美味しいピザを焼いてもらっていた。やっぱり薪ストーブは楽しいなあの1日であった。

12月11日・12日と八ヶ岳の天狗岳に来ている

2024/12/12

12月11日・12日と八ヶ岳の天狗岳に来ている。初日は唐沢鉱泉から黒百合ヒュッテまで上り、そこで小屋に荷物を置いて、中山までの散策をした。最近の冷え込みで雪は結構降っている。黒百合までの道のりは写真の如き雪景色だ。

この小屋は2年ほど前に建て替えをした。ちょうどお盆休みの時にたまたま来た時が工事真っ最中であった。その時はまだ外壁や内壁が剥がされて、木造の骨組みが剥き出しになっていた。今は、窓も樹脂サッシのペアガラス、断熱材もしっかり入っていて暖かい。外気はマイナス15度の世界である。これほど断熱材の効果を感じることもなかなかない。

二日目。天狗岳に向かって登り始める。稜線に出ると風はそこそこ、天気は良好で、太平洋側の山梨県あたりの山脈から、北アルプス方面まで見渡すことができた。こうしてみると日本は小さな国だと思う。この山は中学2年生か3年生の時に、山岳部で登りに来た記憶がある。それ以来4回ほどきたけれど、冬に来るのは3回目である。今年はあまり登っていないので無理もできない。マイナス20度の冬の稜線で不慣れな体に何かあると怖いので、頂上まであと30分ほどのところで引き返すことにした。コロナが明けて宴会などが増え山に登る回数が激減したが、来年はまた回数を増やそうと思う。やはり頂上直下で引き返すのは悔しいものである。

八ヶ岳のこの辺りの小屋で通年営業をしているのはここだけだ。この小屋を始めた米田さんという女性は、明治時代に国有林で木こりの組を経営していた方の奥様だったそうだ。ご主人が亡くなり、なんとか暮らしを立てるために始めたのが山小屋だったそうだ。今は3代目のオーナーが経営を続けている。平日の小屋は空いていて、僕たちだけで貸切状態だったけれど、週末は40組以上の予約があるというから大したものである。学生だろうか。四人の若者で小屋をまわしているようだ。こういうところで若い時に働くのは良いものだと思う。きっと色々なことを悩むことができる。人は情報から切り離された世界に浸ることが必要な時もあるものだ。テレビもない世界、何かを考えるにはとても良い環境だけれど、残念なことにドコモの携帯は使えてしまうようである。これがなければもっと良いのだが、仕方がない。3月ごろ、少し暖かくなり始めた春山で再挑戦してみよう。

今日は東京都某所の土地に計画中のMさんの家のスタディーを行った。

2024/12/06

今日は東京都某所の土地に計画中のMさんの家のスタディーを行った。この住宅はとても細長い敷地に建つ木造2階建住宅である。敷地の奥には擁壁があって、この擁壁には耐力を期待することはできない。ということになってくると、杭を打って基礎を支える、杭で支えられた基礎の上に木造で住宅を作る、あまりにも細長いので転倒しないように基礎の重さを重くする、跳ね出しの部分を支えるためにワイドスパンの柱を設ける、などなどの工夫をしなければ作ることはできない。なにぶん一筋縄ではいかない土地の住宅建築である。工務店機能を兼ね備える設計事務所であるますいいリビングカンパニーならではの得意分野、構造家との事前打ち合わせができたので、次は杭業者さんと基礎屋さんの現場立ち会いを行なって、概算の見積もりを作成していこう。

色々な人が使うカフェの計画にあたっては、この辺りの町にある、ある種の記憶のようなものを感じることができる建築の良さを、生かしたデザインをしていこうと思う。

2024/12/02

今日は埼玉県川口市にてリフォームを検討中のMさんと打ち合わせを行った。場所は川口駅の駅前、相続した建物をカフェとして有効に使用するためのご相談ということである。1階の店舗は賃貸で稼働しているので、2階の住居部分の利活用となる。とはいえ、できるところはセルフビルドでのローコストリノベーション、ますいいでは施工するのが難しいオーニングや断熱性の向上、外壁のメンテナンスなどを行うこととした。

この場所は何百回と通っているけれど、まさかこんなふうに普通の家が建っていたなどとは思ったこともなかった。建物は道路から見るとまるでビル、でも実は住宅の一部である。現在店舗が入っているところは、昔は工場だったそうだ。この辺りは、少し遡ると大体が機械か木型の工場であった。大きなマンションはほとんどが鋳物屋の跡地だ。表向きでは見る影もないのだが、こんなふうに昔の川口市の風景が建築の中に残っているところが面白い。大型工事でどんどんと街の記憶がなくなっていく。そしてそういうものを残そうとする政治家も少ない。でも個人の建築を、個人の力でリノベーションするなら残すことはできる。色々な人が使うカフェの計画にあたっては、この辺りの町にある、ある種の記憶のようなものを感じることができる建築の良さを、生かしたデザインをしていこうと思う。

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