増井真也 日記 blog

8人の従兄弟の絆が叔父の死をきっかけにより深くなったような気がする

2023/06/28

今日は母方の叔父の葬儀に参加した。享年71歳、ちょっと早すぎる死だったような気がする。叔父さんというと近い方もいれば遠い方もいるだろうが、僕にとってはとても思い出深い叔父であった。

僕の母の実家は木型屋さんだった。木型屋さんというのは鋳物を作るための型を作る職業で、戦争から帰ってきた祖父が川口市で修行して独立して作った会社であった。寡黙でいつもタバコをふかしながら黙々と仕事をする祖父の姿は今でも脳裏に焼き付いている。母方の初孫だった僕はいつも実家に預けられていて、祖父の仕事場が大好きだった僕は仕事の邪魔だとは薄々感じながらも工場に降りていって一緒に過ごしていた。木型の切れ端をいくつか与えられて、子供の想像力の中では立派な船やら汽車やらを作っては壊しの思い出がある。夜はいつも野球中継、必ずジャイアンツの試合中継がテレビに流れていた。戦争のことを聞いてもほとんど話してくれなかったけれど、一度だけ上陸戦の話をしてくれたのを覚えている。ほとんどの仲間が重い荷物でうまく泳げずに沈んでいく、銃弾は周りに飛んでくるけれどそんなものは当たりはしないんだと言っていた。それ以上は話してくれなかった。

僕が小学校に上がるときには机に入れる木の引き出しを作ってくれた。みんなが大抵はプラスチックの箱を持っている中で僕はそれを6年生まで誇らしげに使っていた。僕が4年生の時に祖父が亡くなった。平日に何故か父方の実家に預けられ、なんだか悪い予感がしていたもののよくわからずに遊んでいたら、帰ってきた母から祖父の死を告げられたことを今でもよく覚えている。叔父の姿はそんな祖父の横にいつもあった。同じくとても真面目で寡黙な人だった。でも僕のことはいつもよく面倒を見てくれていた。よくお酒を飲んでタバコを吸っている人だった。

この葬儀をきっかけに従兄弟の会を発足、ますいいリビングカンパニー僕たち兄弟、コマームの3人とコマムグの和人、いいくらしすとの藤井兄弟、8人の従兄弟の絆が叔父の死をきっかけにより深くなったような気がする。(左端が祖父でその隣が叔父、僕が生まれた時48年前の写真)

その昔穀物を保存するには二つの方法があった。一つは風による保存、もう一つは土の中に埋めることだった

2023/06/20

今日は秩父の丸山に登ってきた。道の駅あしがくぼに車を止めて、道の反対側のある集落を通り抜けて登山道まで。やがて登山道に入ると平日の秩父、ほとんど人がいない。つい先日近くの山の岩登りをしている方が熊に襲われた映像が世間で騒がれているので、なんとなく熊の存在を気にしながらのハイキングである。山道を歩きはじめるとすぐにお墓が現れた。浅見家の墓である。ますいいのスタッフの浅見くんは秩父の出だというが、この辺には浅見家がたくさんあるようだ。

山を降りると写真の土蔵があった。土蔵は穀物や大切なものを保存することにはじまっている。その昔穀物を保存するには二つの方法があった。一つは風による保存、もう一つは土の中に埋めることだった。土蔵の壁の厚さが30センチなのには理由がある。土の中の温度が一定になるのは約30センチの深さより深いところ、つまり温度を一定に保つ最低の厚みがそれなのだ。この屋根が二重に見えるのは、まず一つ目の屋根には土を葺き、その上に母屋と垂木と野地の下地を作ってもう一度瓦を葺いているからである。瓦屋根はは日常の雨から土蔵を守り、土葺きはいざという時炎から土蔵を守ってくれるのである。

この度、茶道教室を始めました

2023/06/19

この度、茶道教室を始めました。

茶道というのは日本の文化がたくさん詰まっている。焼き物、書、漆工芸、蒔絵、指物・・・さまざまな職人の手によって作られたものたちが存在して初めて成り立つことができる。そして茶禅一味という言葉が示すように、鎌倉時代に栄西によって伝えられた禅宗とも深い繋がりを持ち、自分自身を見つめ直すとても良い時間を与えてくれる。僕はそんな茶道を初めて12年目である。まだまだ修行中の身ではあるけれど、すでに50を目前に控え教室を始めることにした。

場所:川口市里309−3「暮らしを楽しむ作り場」にて
7月の日程:3日(月)・10日(月)・19日(火)・25日(月)・31日(月)
時間:茶道体験 11時から12時
(初めての方の抹茶体験。薄茶とお菓子付き)千円
稽古   13時から17時の間
(月に1回など継続して習いたい方。裏千家茶道教室)三千円
指導者 増井真也 四阿純子
申し込みはこちらまで masuii@masuii.co.jp

 

 

効率や利便性とはかけ離れていることだけれど、でも失いたくないものを復元する感覚だった

2023/06/15

6月15日・16日と、全国から来るチルチンびと・地域主義工務店の会見学会がここ埼玉県にて開催された。15日には総勢30名ほどの方々が、ますいいリビングカンパニーの川口市里にある「暮らしを楽しむ作り場」の見学にお越しいただいたのであるが、日本全国の非常に良質な工務店経営をされている方々が大勢起こしになるということでなんとも緊張した次第である。

合計2時間ほどの見学時間、建物の設計や各種仕様、会社の運営方針などについて詳しく説明させていただいた。僕は若い頃は建設同業者の会というものをあまり大切にしてこなかったのだけれど、今はこういう時間をとても大切にしている。というのも、やっぱりさまざまな経験を持つ方々に学び、その学びを生かしながら自分の会社の独自の型を生み出していくこと、つまり「守破離」の如き思考と行動が一番だと思うからである。

例えば「木の家」という言葉について考えてみよう。ただ単に木を構造材として現しで使っているだけの家もあれば、こだわりの産地の国産材を使用している家もあるし、国産広葉樹を丸太で買って製材し造作に使用している家もある。木の扱いひとつとっても実はその幅は大きく、より山に近いところまで遡っていけばいくほどに素材が良くなるだけでなく、価格も求めやすくなるという利点がある。でもそれをますいいの家づくりに取り入れるには、まず自分の足で吉野の山まで木を見に行って、それを製材する様子を見て、「この木で家を作りたいという気持ちになる」過程こそが何よりも重要なことであった。僕はその機会をチルチンびとの山下編集長からいただいた。実際には吉野の山に生える樹齢140年の杉の伐採見学ツアーをしていただいたのだが、木を切る瞬間に聞こえたような気がした「木の声」のような響、チェーンソーを入れた瞬間に木から噴き出す水飛沫、そして木が倒れる瞬間の地面を揺るがす轟音は一生忘れることができないと思う。この過程を経て僕の頭の中には、日本の山の木を使いたいというとても強い信念が生まれたのである。

健康住宅という言葉も同じだ。この建築ではベニヤ板・ビニルクロスのような新建材を一枚も仕様することなく、全てを無垢材で作り上げた。この話を普通の工務店の方が読んだら、何を馬鹿げたことをやっているのかと言われるだろう。一度便利になったものを巻き戻すのはなかなか大変なことであるのだ。こういうことをしようとすると必ず否定する人たちが現れる。そんなことできるわけない、やったことがない・・・色々なことを言うけれど、でも昔の人はやっていたことなんだよと説明し、納得していただいた。と言うのも高機密住宅の中に化学物質を発生する新建材を仕様したことで現代人のシックハウス症候群といったアレルギーに起因する病気が増えたことを考えれば、ある一定数存在する化学物質に敏感な方にはとても大切なことだと思ったからである。効率や利便性とはかけ離れていることだけれど、でも失いたくないものを復元する感覚だった。

兎にも角にも、今こうして皆様に見学会に集まっていただいたことに改めて感謝したいと思う。

水辺の魅力はまだまだ可能性がある

2023/06/10

6月9日から2泊で地元川口市の仲間たちと一緒に京都の小旅行を行った。初日は久しぶりに拝観が許された裏千家の今日庵訪問、そして夜は京料理の会食である。翌朝は朝の5時に起き、四条河原町のあたりから下鴨神社までの往復10キロほどのジョギングを楽しんだ。コースのほとんどは鴨川沿いである。河原には昨夜からオールで遊んでいる若者たちが集っていて、少々気だるさを感じながらも若者という限られた時間を楽しんでた。芝生で死んだように眠る者もいたが、きっと日常的な風景なのだろう。

こんなふうに京都の街を走るなど生まれて初めての経験だが、都会にも関わらず空が広い。僕が暮らす川口市の駅の周辺はほとんど空が見えないのだか、そういえば荒川の土手だけは広い空を感じることができる。北に向かって走っていると遠くの空に山並みが見える、これまた荒川から見る秩父の山並みと同じである。違うのは水との距離であろうか。スーパー堤防の荒川土手は水までの距離が遠いが、京都鴨川はすぐそこに水辺がある。料理屋の河床も作られており、水辺と暮らしや観光とが共存している。一級河川である鴨川でこんなことが行われているのは長い歴史からくる認識の違いだろう。水辺の魅力はまだまだ可能性がある。川口市の荒川ももっと魅力的にしていきたいと思う。

左官の魅力とは仕上がった壁はもちろんのこと、何層にも重ねて塗っていく過程とそこに込められる工夫にある

2023/06/08

埼玉県川口市に造ったモデル住宅の茶室には木ずり下地の土壁仕上げを採用した。左官職人は榎本新吉名人のお弟子さんの小沼さんである。木ずりに半田という土佐漆喰に土を混ぜたものを塗り、さらに中塗りの土を塗ったところで行う作業がこの長ひげこ打ち(釘に麻紐が巻いてあるもの)である。木ずり下地の暴れによるひび割れを防ぎ、良質の土壁を仕上げるための下地処理であるけれど、何だかこのまま仕上げにしても良いと思えるような魅力を感じる。

左官の魅力とは仕上がった壁はもちろんのこと、何層にも重ねて塗っていく過程とそこに込められる工夫にある。出来上がったらただの土壁、誰もこんな作業をしていたとは想像もできないだろう。昔の建築現場には様々なこうした工夫があった。自然の果実が日の光と雨と土からの養分を得て育つ賜物であると同じように、職人の技術はものと人間と自然との長い時間をかけた対話から生まれた賜物であり、だからこそいつまでも見ていたくなる大切なものなのだと思う。

 

親を待つ子供達にはヒノキの香りのする部屋で過ごさせてあげたい

2023/06/06

埼玉県川口市の本町診療所後に造った保育園では炭を使った室内環境のコントロールを行っている。この炭は島根県の出雲カーボンさんが造っている炭八という商品で、保育園の天井全面に敷き詰めている。天井に敷き詰めらあれた炭は余分な湿度を調整してくれたり、化学物質を融着してくれる効果がある。もちろんコンクリート躯体には構造に問題のない範囲で外部と通気するための穴をあけ、最終的には外部への湿気の放出ができるようにした。

なぜこんなことをしたのかといえば、今回の設計では鉄筋コンクリートの建物の内装をリフォームしたからである。元々のコンクリートという素材の持つ機密性の高さゆえに、建材から発生する微量の化学物質はなかなか教室の外に出ることはない。結果そこにいる子供たちがどうしても化学物質を吸い込んだり触れたりの可能性を捨てきれないわけだが、炭を使用することでそれを防ぐことができるのである。床板には無垢のヒノキを使用している。親を待つ子供達にはヒノキの香りのする部屋で過ごさせてあげたい、こういう思いを実現できたことに感謝である。

ダブルだるま窯

2023/06/01

昨日のつづきである。一昔前の淡路島にはダルマ窯というものがあったという。

「桃山、江戸時代の瓦工の焼いていた黒瓦の多くは平窯であった。この平窯の原型は焚き口が一つで外観は達磨さまが座っている格好であったところから「だるま窯」という俗称が与えられたという。今は全く形が違っているがなるべく多量にとの目的からだるま窯を二つ背中合わせにつけ焚き口を二つにし、横腹から瓦の出し入れをするようになった。淡路瓦も昭和30年代までの多くはこのだるま窯により焼かれていた。」

ということである。この女性の写真だけでなく他にも多くの写真に作業をする女性が写っていた。瓦というのはその昔誰でも使用できたものではなく、庶民の家は茅葺なのど植物性の素材によって屋根が作られていた。そういう高級素材を少しでもたくさん作ることができるようにこのダブルだるま窯が考案され、これまでよりも倍速で生産できるようにしたのであろう。江戸時代というのは色々な工業が進化した時で、漆喰の生産量も格段に増えたと言われている。街並みを描く絵の壁の色が白くなるのもこの時期だ。だるま窯、もう見ることはないのだろうなあと懐かしくなる「もの」であった。

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