8人の従兄弟の絆が叔父の死をきっかけにより深くなったような気がする
今日は母方の叔父の葬儀に参加した。享年71歳、ちょっと早すぎる死だったような気がする。叔父さんというと近い方もいれば遠い方もいるだろうが、僕にとってはとても思い出深い叔父であった。
僕の母の実家は木型屋さんだった。木型屋さんというのは鋳物を作るための型を作る職業で、戦争から帰ってきた祖父が川口市で修行して独立して作った会社であった。寡黙でいつもタバコをふかしながら黙々と仕事をする祖父の姿は今でも脳裏に焼き付いている。母方の初孫だった僕はいつも実家に預けられていて、祖父の仕事場が大好きだった僕は仕事の邪魔だとは薄々感じながらも工場に降りていって一緒に過ごしていた。木型の切れ端をいくつか与えられて、子供の想像力の中では立派な船やら汽車やらを作っては壊しの思い出がある。夜はいつも野球中継、必ずジャイアンツの試合中継がテレビに流れていた。戦争のことを聞いてもほとんど話してくれなかったけれど、一度だけ上陸戦の話をしてくれたのを覚えている。ほとんどの仲間が重い荷物でうまく泳げずに沈んでいく、銃弾は周りに飛んでくるけれどそんなものは当たりはしないんだと言っていた。それ以上は話してくれなかった。
僕が小学校に上がるときには机に入れる木の引き出しを作ってくれた。みんなが大抵はプラスチックの箱を持っている中で僕はそれを6年生まで誇らしげに使っていた。僕が4年生の時に祖父が亡くなった。平日に何故か父方の実家に預けられ、なんだか悪い予感がしていたもののよくわからずに遊んでいたら、帰ってきた母から祖父の死を告げられたことを今でもよく覚えている。叔父の姿はそんな祖父の横にいつもあった。同じくとても真面目で寡黙な人だった。でも僕のことはいつもよく面倒を見てくれていた。よくお酒を飲んでタバコを吸っている人だった。
この葬儀をきっかけに従兄弟の会を発足、ますいいリビングカンパニー僕たち兄弟、コマームの3人とコマムグの和人、いいくらしすとの藤井兄弟、8人の従兄弟の絆が叔父の死をきっかけにより深くなったような気がする。(左端が祖父でその隣が叔父、僕が生まれた時48年前の写真)