裏千家東京道場にて開催される好日会という茶会に参加
2019/09/12
朝一番で家を出て、裏千家東京道場にて開催される好日会という茶会に参加。今日は裏千家の今の家元のお父様である大宗匠が席主をされるということで、着物を着ての参加となった。8時過ぎに会場につくと、まだ誰も来ていない一番乗りの状態である。指定された席に入れていただくと、早速伊住宗陽氏によるお点前が始まった。なんと本物の中興名物の茶碗とか、利休さんの在判のある長次郎の黒などが使用されている。実際に手に取って拝見させていただくと、何とも言えない気分になった。
さてさて、高価な茶碗はもともとはそうではなかった。長次郎は瓦職人であり、利休がそのわびた世界観の茶碗を焼かせたときには、全く価値など定まっていないかったと思われる。高麗茶碗とて同じことで、もともとは庶民が使用する飯碗だったというお話もある。つまりは僕が普段使用しているご飯茶碗と同じようなものが、たまたま茶道に使用され、様々な人の手を経て伝わった結果、今では美術館の中に飾られているという何とも不思議な顛末なのだ。茶室という建築も同じようなことが言える。床柱に使用する赤松の丸太など、本来であればどこにでも生えていて簡単に手に入るものであるわけで、高価な銘木屋さんで購入するような代物ではないはずだけれど、でも時代の中でそういう風に扱われるようになってしまうと、いつの間にやら高価な銘木として扱われるほうが当たり前になってしまったりもするのである。竹の下地がそのまま見えている下地窓、これだってやりかけの状態を見せているはずなのに、今ではアルミサッシよりも高価な仕上げとなってしまった。
物の価値は人為的に造られるものだ。茶道具の価値は利休によって高められ、その時代では一国の領地に値する茶入れなども存在した。そういうものが名家の手を経て現代に伝えられているからこそ、名物と呼ばれる道具には価値があるのだ。しかし現代における茶道具の価値は確実に落ちている。給料の代わりに茶道具・・・はあり得ないし、戦争などの命を賭した行為の褒美に茶道具・・・これもあり得ないだろう。資本主義社会の中の商品としては需要と供給のバランス、そもそもほしいと思う人、つまりは茶人の人口が減少しているのだから値が下がるのは当たり前である。純粋な美術というよりも茶道の中で使用される道具というあり方なので、茶道自体に関心がない人にとっては美術品としても価値がないのかもしれない。そもそも技巧を凝らしたエミール・ガレやドームの美術品のような作品とも性質が異なる。つまり侘び寂びの世界観はその精神的価値の共有のもとにしか理解できないものだとも思うのである。
現代社会における茶道とは何かを考えると、日本らしさ・アイデンティティーの確立要素のような役割と、マインドフルネスのごとき現代人の心の安らぎを生み出す行為の二つがあげられるであろう。そしてその行為に必要な道具が茶道具なのであって、これはやはり美術品ではないのだと思う。利休の在判のある黒に触ったときの心の動き、それは決して高価なものに触れた歓びではなく、茶道の発祥に近い何かに触れることができた心のざわつきのようなものであると思うし、そうであったと願いたい。大宗匠のお姿を見ていて心落ち着く時間を得ようと心がけたが、なんとなく感慨深いものを感じて涙があふれる時間となってしまった。未熟な僕には、ゆったりとした時間ではなく心ざわざわの時間となってしまったわけだけれど、そんなことを考えながら過ごすざわざわは僕にとってとても良い経験をさせて頂いたと感じられるし、とにもかくにもこのような機会をいただき感謝であった。