増井真也 日記 blog

左官の奥深さは、この土の奥深さにあると言っても過言ではないのである。

2025/03/17

泥団子を左官の世界で広めたのは、榎本慎吉という左官の名人である。テレビで見た時にもっと上手くできると研究を始めたらしい。土を団子状に丸め、表面を磨くと驚くほどに光る。写真に映るのは僕が磨いたものである。作り方を僕に教えてくれたのは、名古屋の加村さんだ。加村さん曰く、瓶で磨くとよく光るということで、チョーヤの梅酒の瓶を集めた。泥団子はその土の色になるのが面白い。土は岩石が粉々に砕け、有植物や生物と混じり合ってできるわけだが、それゆえに産地によって様々な色を見せてくれる。

土を磨くといえば、大津磨きがある。泥に石灰を混ぜてコテで磨くと光る。写真は先日完成した、東京都新宿区のNさんの家で沖縄の赤土を磨いた様子である。茶室のような和室の入り口、赤い色が生える。左官の奥深さは、この土の奥深さにあると言っても過言ではないのである。今は何でも合理主義の時代だから、色をつけるといえば簡単にペンキで塗れば良いとなる。確かにペンキで塗れば赤くなるが、そこに職人の存在する余地はない。日本はものつくりに魂をかける職人によって支えられてきた国である。どんな世界でも物を作る人々にはある種の「めりはり」と呼べるようなものがあって、だからこそたとえば桂離宮に見られるような職人の技が脈々と現代まで引き継がれてきた。今の世に生きる職人にも「めりはり」はある。少なくとも職人と呼べるような人の胸の中には確実にあるのだ。僕たち設計者はそれを発揮することのできる舞台を用意すれば良い。そうすると思いもよらない結果を出してくれる。この赤い磨きの入り口は、そんなものだと思うのである。

私は17日15時以降 20日・27日・29日10時30分から14時まで在廊の予定なのでぜひお越しください

2025/03/16

今日は朝から旧古河庭園・大谷美術館で開催している「窓計画展」に参加した。10時30分からの会場ということで、次女の真子と一緒に会場に向かう。中学生の時に来たことがあるそうで、なんでも学校でバラ園の見学をしたそうだ。この建物は、建築家のジョサイアコンドルによる設計で、それまで荒れ放題だった建物が平成元年ごろに改修工事を施され現在のような見事な姿になった。今回の展示は、石山修武先生と大谷美術館の理事長さんのご縁で開催されることになった。参加者は多数いる。建築家と彫刻家による集合展である。和室に展示されているものの一部がますいいリビングカンパニーの作品である。会期は3月30日まで。私は17日15時以降 20日・27日・29日10時30分から14時まで在廊の予定なのでぜひお越しください。

季節の移ろいとともに、集まり散じて人は変わるが、同じ建築の理想を仰ぎ見ながら過ごす新たな仲間たちとの出会いが楽しみである

2025/03/13

今日は裏千家淡交会埼玉県支部の総会に副支部長として参加した。副支部長というのは、支部長さんがいれば特にやることのない立場なので、壇上に座っているだけ、紹介されれば挨拶をするという程度の役割なのであるが、壇上から見ていると気がつくこともあるわけで、色々と考えながら時を過ごす。会場は埼玉会館の大ホール。参加人数は250名ほど、委任状を入れれば過半数を超えるけれど、約1400人の会員数に比べるといかにも少ない。この参加者数を増やすにはどうすれば・・・、などと考えながら約30分ほどの時間を過ごした。茶道の文化は廃れてはいない。しかし、茶道を嗜む人々の生活パターンは変わり、今や作動人口の大部分を占める女性のほとんどは仕事を持っている。平日の朝10時からの総会に参加ができるのは、有給を取るか、仕事をしていない人な訳で、少人数は必然である。さてさて、今年から始まった支部での活動である。じっくりと腰を据えて、取り組んでいきたいと思う。

午後、久しぶりにものつくり大学に行く。担当教授の三原先生との60分ほどのレクチャーである。4年生はすでに卒業していない。もう少しすると新4年生が研究室に顔を出すようになってくる。こんなふうに人が通り過ぎていく場所はなんとなく新鮮で良い。季節の移ろいとともに、集まり散じて人は変わるが、同じ建築の理想を仰ぎ見ながら過ごす新たな仲間たちとの出会いが楽しみである。

今日は埼玉県春日部市にて先日完成したIさんの家にお邪魔した

2025/03/10

今日は埼玉県春日部市にて先日完成したIさんの家にお邪魔した。Iさんは僕の中学・高校・大学の同級生である大室君の大阪のご友人である。今は埼玉県に住んでいて、この度奥様のご実家だった土地に新築住宅を建てるということでご相談していただいた。初めてのご相談から、かれこれ1年以上が経つわけだけれど、用なく完成を迎えることができた。写真はリビングの様子である。大きな吹き抜けがあり、吹き抜けを通して2階の個室と連続している。吹き抜けには大きな窓があり、空を見渡すことができる。3枚目の写真は玄関の様子だけれど、天窓からの光がとても心地よく入り込む。敷地は斜面の畑に面していて、リビングの窓からは見渡す限りの畑の風景が広がっている。内側にも外側にも、とにかく視線が抜けるように作られているのだ。2枚目の写真はキッチンの立ち上がり壁を利用して作られた、調味料を入れるためのニッチである。これは奥様のアイデア、やはり女性のアイデアは家を使いやすくするから面白い。

仕事を終えて思うことだが、やっぱり古くからの友人から、家づくりのお客様を紹介していただくというのはとても嬉しいことだ。もしもお客様を満足させることができずにトラブルがあれば、紹介した友人が何となく責任を感じてしまう中で、それでも紹介してくれるのだから、やっぱりその信頼に応えなければならないわけで、その責任は重大だ。こだわりの家づくりというのはとても難しい。素人であるお施主様が家づくりに対する自分の意思を正確に図面化出来るわけもないので、その曖昧なご要望を図面化し、間違いがない状態まで持っていってから造るのだけれど、正解はなかなか辿り着くのが難しい。だから図面を書く。図面は僕たちが仮に建てる家のようなものである。紙の上だからこそ気に入らなければ何度でも書き直すことができる。逆に言えば、建築家にできることは図面を書くことだけなのだ。そこから先の実際の家づくりには、大工さんと素材が必要になる。仕上げの段階に入れば、左官屋さんも大切な役割を果たす。一昔前、世の中には多くの職人さんがいた。でも今はその数がどんどん減って、腕の良い職人さんを抱えていることもまた建築家の大切な役割である。だから職人、そして素材を生み出してくれる林業家と製材所を大切にしているのだ。今回も良い家ができてとても良かったと思う。

東京都新宿区で完成したNさんの家では、「すがたかたち」さんの引き手などを使用している。

2025/03/03

東京都新宿区で完成したNさんの家では、「すがたかたち」さんの引き手などを使用している。とても実用的で、かつデザインも良い。Nさんが惚れ込んで購入したコート掛け、引き出しの引き手、キッチン収納の取手などたくさんの有機的なデザインが散りばめられたことによって住宅全体がとても生命感のある空間となった。皆様のご自宅にもぜひ取り入れてみてはいかがでしょう。

実は来年4月から東京大学の博士課程に入学し、現在ものつくり大学の修士課程で行なっている左官の研究の継続研究を行うことを目指しているのだが、東京大学入学のためには英語の成績と設計の試験が必要なのだ。

2025/03/01

今日はTOEFLのテストを受けた。なんで50歳のおっさんが、と言われるかもしれないがこれには訳がある。実は来年4月から東京大学の博士課程に入学し、現在ものつくり大学の修士課程で行なっている左官の研究の継続研究を行うことを目指しているのだが、東京大学入学のためには英語の成績と設計の試験が必要なのだ。設計の試験はまあ大丈夫だろう。大丈夫でなければ困ってしまう。しかし、英語となると・・・、何十年ぶりの勉強だろうか。そもそも学生時代から、語学は正直言って得意分野ではない。語学と運動神経と音感みたいなものは、一種の遺伝的な得意不得意があると思うのだが、僕はそのどれもがあまり得意ではないのだ。昨年の12月に担当の先生と面談を行なった日以来、一応1日も勉強を欠かさず今日を迎えた。それなりの自信と不安を抱えながら試験会場に入ると、そこはもう体感したことのない異次元の世界だった。まず試験が一斉に開始されないことに驚いた。受付は先着順で、一人一人渡されたメモ用紙を読み上げて音声の登録を行うのだが、それが終わった人から順番に隣の部屋へと移る。その際には金属探知機を使ってポケットの中などに異物がないかを検査される。検査をパスすると、試験会場に入ることができるのだが、僕は最後から二番目だったからすでに30名ほどの受験生が試験を始めている状態だ。机に座り、リーディングの試験からスタートである。リーディングを終えてヒアリングに移る頃には、他の人がスピーキングの試験を始めた声が聞こえてくる。もうスピーキングまで進んだんだなあ、などと考えているうちに自分のリスニングが終わってしまって後の祭り、ほとんどまともに回答することができないまま終わってしまった。スピーキングとライティングはまあまあできた。試験が終わると一部の成績が公表されるが、さてさてこれはいかがなものであろうか。足切りの成績を超えることができたかどうかは最終的な結果を待たなければわからないけれど、ひとまずやるだけのことはやった。終了後、お茶の水まで歩いて昼食を食べ、本屋さんによって立ち読みをしてから家路についた。なんだか学生時代に戻ったような1日であった。

増井真也 日記アーカイブ