日曜日の今日は本当は山に行こうかと思ったのだけれど
2022/01/09
日曜日の今日は本当は山に行こうかと思ったのだけれど、来週僕の家で行う茶会の席で濃茶の各服点というお点前を行う稽古をしなければいけないなあのプレッシャーを感じて諦めることにした。濃茶というのは通常3人分や5人分の量を1椀に点て茶碗の回し飲みでいただくのが普通だったのだけれど、コロナの影響でそれが叶わずさてどうするかという段になって、スペイン風邪の時に円能斎という方が考案した各服点というものを再び採用することになったわけである。古いお点前だけにお家元がビデオメッセージまで出して僕たちにご紹介してくれたわけだけれど、これがどうも普及しない。だったら僕たちがやってみようということで、十六日のお茶会で披露することになったわけだ。
このお点前ではたっぷり3杓の濃い茶を茶碗に入れ、追柄杓なしで濃い茶を点てることになっているのだけれど、これは誠に難しくなかなか上手にできない。長盆に4椀を乗せ、一気に点てた濃い茶を妻や子供たちといただくこと4回、流石にもうお茶は飲めないなあと思った頃にようやく濃茶らしくなってきた。
僕の茶室にはほんのりと照らしてくれる小さな照明がついている。でも茶室の明かりを消して窓から入るわずかな光に包まれている方がどれだけ心地よいか、というわけで明かりを消してのお点前も試してみると、黒茶碗のなかは完全な暗黒、他の茶碗はなんとか見えるがこれは全くの暗闇なのだ。黒楽茶碗というのは利休が作ったものである。長次郎という瓦職人に焼かせたと言われているが、中国伝来でも朝鮮伝来でもない日本の美、それを真っ黒な茶碗に背負わせたのだからこれは革命的なことであっただろう。これまで何度も使ってきたが、こんなふうに暗闇にして使ったことは一度もなかった。利休の時代、当然照明器具などはなく、あっても蝋燭や油の灯りで照度は今日と同じであろう。ということはこの黒茶碗、今も昔も点前をする人が何も見えない状況をあえて生み出す茶碗なのである。見えないのだから頼りは勘のみ、下手な小細工はやりようがない。勘は体に染み付いた所作からしか出てこない。果たして僕にその所作が身についてくれるだろうか。茶碗のなかの暗闇に吸い込まれるような不思議な感覚、目に見えないことを見ようとするのではなくあるがままに受け入れることで感じる神聖さ、なんだかちょっとお茶というものがわかった気がした1日であった。
